境内
心安らぐ寺
度重なる火災や台風などにより
創建当初の府大寺であった
観世音寺の偉容は
失われてはいるが、
大宰府が太宰府に移り変わる
歴史の証人として、
そして参拝いただく方の
心を安らげる寺として
静座している。
観世音寺について
講堂 | 元は本堂と言われていた建物であるが、現在は講堂と呼ばれている。1688年に福岡藩主黒田光之および天王寺屋浦了夢一族によって再建された。「延喜五年資財帳」の記載と比較すると再建講堂の規模は2.5分の1に縮小している。中には本尊の木造聖観音立像が安置されている。 |
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金堂 | 講堂に向かって左側に配置されている。中世紀以降阿弥陀堂と呼ばれていたが、現在は金堂と呼んでいる。1631年に福岡藩主黒田忠之により再建された。 |
鐘楼 | 参道から講堂へ向かって右手の方には五重塔跡および鐘楼を見る。鐘楼には梵鐘が吊り下げられており、大晦日にのみ鐘の音を楽しむことができていた。梵鐘は保管のために九州国立博物館に寄託してある。 |
五重塔跡 | 現在は礎石4個のみが残っており、その心礎の大きさなどから当初層の大きさは一辺20尺(おおよそ6m)であったと推測されている。在りし日の姿は宝蔵にある「観世音寺絵図」にて思い描くことができる。 |
宝蔵 | かつて講堂にて5mを超える仏像が立ち並ぶ姿は圧巻であった。その光景を後世に伝えることができれば理想的ではあるが、この寺は火災や台風により被災を繰り返してきた歴史がある。文化財保護の目的で、国内の同様の収蔵施設に先駆けて1959年に伊藤要太郎の設計により正倉院風の宝蔵が建てられた。 |
碾磑 | 講堂の正面の階段を登ると左手にさりげなく碾磑が置いてある。碾磑は石製大臼のことで、直径1m、上臼の厚さは25cm、下臼は30cm、そして重量は上下それぞれ400kgである。本臼は天平石臼とも呼ばれ日本最古の碾磑である。人力で挽くことは不可能な大きさの為、牛などの畜力により引いていたものとされている。また臼の目の大きさより、小麦などの穀物には適さず、寺院造営の際に必要となる朱を挽いていたと考えられている。 |
参道入り口 | 福島県妙林寺の張堂大龍師の格調高い書体を刻んだ「観世音寺」碑がある。張堂大龍は岩手県平泉の中尊寺金色堂の標柱を書いた事でも知られる。 |